子どもだった私が作りたかったもの。


大きな紙の上で、筆の先につけた絵の具をただただ広げる作業をしてみたかった。

真っ白な紙の上に、どぼどぼとペンキを注いでみるのが夢だった。

描き切ったあとの絵が、自分の好きな色だけでできていたら、どんなにか素晴らしいだろうと思っていた。


私が子どものころに作りたかったものは、そんな程度のものだった。

並べてみれば、難しそうにも思えない、誰だってできそうな夢である。


しかし、どれも、

子どもである私には、作れなかった。


まず、大きな紙が、子供だった私の手には入らなかった。

毎度毎日いたずらに紙を浪費するような子どもの遊戯に使わせてもらえる機会など一度たりともなかったし、

その状態で、大量のペンキを用意されることも、まして、その紙の上に流すことなど、許されるはずもなかった。

白いキャンバスなどというものも、大学時代、画材も売っている雑貨屋で、初めまして、の出会いをしたくらいである。


子どもの頃の私があてがわれた画面の最大サイズは、模造紙だったが、

自由研究の成果を「文字」で表すために支給されたものであり、

支給者の期待を裏切って、絵を描いてしまう、などという自由さは、

持ち合わせていなかった。

意外と大人の思惑を気遣う、非常に従順な優等生だったような気がする。


さらにいえば、ずっと描いていたいような筆もなかった。

毛先はいつもぼさぼさして、固まっていて、使いたい気になるようなものでもなかった。

もちろん、自分の管理が悪いのだと言えばそれまでだが、

忘れっぽいうえに雑そうな子供に根気強く管理方法を丁寧に教えこんでくれる稀有な大人も周りにいなかったし、それに、「子ども用」筆の太さが好きではなかった。

丸筆などよくわからない動きをしたし、細筆で線を書くにもなぜマジックではいけないのか、使い分ける意味もよくわからなかった。かろうじて描きやすいのは平筆だったが、そればかり使っていると、ますますほかの筆が存在する意味がわからない。

道具と分かり合えない子どもだった。


絵具もしかり、水彩絵の具の魅力が十分わからず、好きな色を好きなだけ使っているだけで、

画面はだいたい茶色くなった。

手練れたる他人たちから、混ざりあうことの妙を説かれるたび、

なぜ、わざわざ描き分けている色が混ざりあうことを許さなければいけないのか、

そこにある奥深さをまったく理解できなかった。


わたしは、ただ、

ただただ紙の上をすべる筆のストロークを眺めつづけていたかったし

大きな画面に、どぼどぼとペンキを注いでみたかった。

自分の好きな色を、思う数だけ使いたかった。


誰かに投げかけられるアドバイスや励ましや期待の横で、

ただそれだけのことを成し遂げられる体力も忍耐力も持ち合わせていなかった。

おさないわたしの悪戯心がおさないうちに、満たされることは、ついぞなかった。


子どもだった私が作りたかったものは、

いまだから、つくれるのだ。



#岐阜県現代美術協会 #アンデパンダン展

©関愛子

©SEKI AIKO 2023 のテーマは、 単純さをとりもどす