作品との向き合い方について。

この記事は、自分の「作品」というものに対して考えていること、作品との向き合い方について、現時点における自分の頭の中を広げた、とりとめのない忘備録です。読みづらさはご勘弁を。
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今回の展示作品「和紙、川景色」は、以下の制約にもとづき制作。

・クライアントによる注文。
・コンセプトは依頼者の中にある。
・制作にかける時間はわずか7時間。一発勝負。
・朝設置して夜には撤去する一日だけの展示。

そのどこかに、自分の意思が少しでも介在していれば、これは自作品なのだと疑う余地もないのだが、今回はそうではなかった。

しかし、作り終え(撤去も終え)てみれば、
これはやはり自分にとっては、「作品」であったと感じるところがあり、その意味での、"作品との向き合い方"について、自分なりの考察と解釈をここに、書き記しておいて、後から自ら振り返る愉しみにしようと思う。

デザインか、アートか。

アーティストと名乗りはじめた以上、
クライアントの思惑に限りなく寄せ、また、いくつかの折り合いをつけながら作り上げたそれは、自分にとってアートと呼べるのか、デザインの範疇に属するものか、そんなことがひとつ、気にかかっていた。
そういう区分けや肩書きで、自分で自分のしたいことに枠を設定することほど虚しいことは無いのだが、とはいえ、この時点での自分の内側を正直に打ち明ければ、そういうことです。
これは一種の呪いにかけられているような気もしている。

自分が作るべき最終形は

目の前にある作品が、鑑賞者の内側(心か頭かはたまた体のどこか一部か)を占有する度合いが大きければ大きいほど、自分は、自分の表現したいものすなわち自分の作品を肯定できる気がする。

…できる気がする、といって断定しきれないのは、作品の存在が、どのくらいのひとに届いて、そのひとたちの内側をどのくらいの割合で占有できているか、まだしっかりとわかっていないからですが、

端的にいえば、
作品がそこに生まれた、その必然性に出会えるような作品を作りたい。ということ。


「景色」を、「作品」の容器にするというよりは、
「作品」を、その「景色」の器にできるか。

「景色」の中に「作品」を配置するインスタレーションというより、
「作品」に「景色」をインストールしている感覚に近い。

この「作品」が、ここにある「景色」を提示する。
そんな空間の創造を志向している。

わたしを取り巻く世界と、
わたしの意識をつなぐ。

わたしは、
わたしを取り巻く世界に存在する実体を、
わたしの心の中に据え置きたいと思う。
それは、それでこそ、私の中でその作品に存在意義を付することができ、また、その作品に対峙する自分にも確かな存在価値が見出せることを、信じるからである。

この世に実在するものに、存在意義を求める必要などあるのか。その根源的な問いが横たわることはあるにしても。



さて、では、今回の「作品」が、自分の求める「作品」たりえたか、その確信のほどは、というと、五分五分という気がしている。
自分の作品を通して暗中模索を続けるかぎり、半分は答えが出ないという意味では文字どおりだけれども、ならば、そのもう半分の中でカウントしたとして、それでもやはり五分五分なのです。
身もふたもない言い方ですが、消化試合だった気がしてしまうのです。
しかし、これは、きっと、別のルートで歩んでいたとしても、消化試合と思うような段階を、自分は必ず経ていただろうと思いめぐらせ、言い聞かせながら、次の自分を奮い立たせる。

山の木々が、呼吸するように

この流域も、呼吸する。


空が、水から雲を生み出すように

ひとが、水と木から和紙を生み出す。


いくつもの土地を越え、時を超え、ひとすじの川につながれた、豊かでたおやかなる流れ。


長良川の流れる横で、長良川を流れてきた美濃和紙とともに、長良川を再現した。


「和紙、川景色」

WASHI-KAWAGESHIKI
2019

©関愛子

©SEKI AIKO 2023 のテーマは、 単純さをとりもどす