主張の手段

それは、過激な言葉で述べる必要があるだろうか?

瞬間的にインスタントに生まれたにすぎないそのエンティティに、

縛られるべき理由など、どれほどあるのだろうか。


「フック」だの「刺さる」だの、

世の中は鋭いもので人の中に入ろうとする。


肉を割き、血の流れるのを見てカタルシスを得て

切り裂ける精神に、あわよくば骨へ脳へ達せよと

呪いをかけ続ける程の、主張など、必要なのだろうか?


要らないのだ、そんなもので細胞組織を破壊される機会など、

わたしは、要らない。


そもそも、それほどまでして、ひとの関心を引くことに、何の価値があるのか。


言葉のようなものを最上位に据える必要は、あるのだろうか。

他人に対して表現し、表現され返す必要は、あるのだろうか?

わたしたちは、表現を、しないと生きていけないのか? されないと生きていけないのか?


人里はなれた環境では、枯れ葉の音さえ、人のささやきに聞こえてしまうほど

ひとの脳は人とのつながりを求めている。


他人がそばにいることで、自分の社会的輪郭が浮き上がることを理解できる一方で

他人に囲まれている自分がどこまでも嘘くさく胡散臭い存在だと、

わたしの中で、もうひとりのわたしが叫ぶ声を、わたしはたしかに聞いている。


強く、激しい言葉で、感情あらわにしないと

こちらの真意が伝わらないのは、

社会性の身についていない赤ん坊か、

言葉を解さない文化圏の人間であると思う。


伝える必要があるのだろうか。

赤ん坊に。言葉の伝わらない者に。

そこに存在していることが、醜いほどに激昂するきっかけをつくっているのだということを、伝えなければいけないのだろうか。わたしは、そっと離れてしまえばよかったのだろうか。離れたことで命が消えたのならそのことを、残され生きる人生の中でずっと懺悔し続けるしかなかったのか。



芸術家であるなら、

激しく破壊して手段をとるべきか、

マイルドにトリートメントするような手段をとるべきか。

その中間かまたはまったく異なる次元に、

芸術家とも健常者ともつかない

わたしの目指すべき「手段」は、残されているのだろうか。



©関愛子

©SEKI AIKO 2023 のテーマは、 単純さをとりもどす