"遊び"への"祈り"

PLAYLOTという言葉を見つけた。

不動産用語集にプレイロット、とある。集合住宅団地のはざまにあるような幼児用の遊び場のことを、そう呼ぶらしい。


”遊べる”ということが、贅沢なことであると気付いたのは、子どものころである。

子ども時代、”遊べない” 環境だったわけでもないが、しかし、常に何かに追われて、”余裕”のある暮らしとは到底、縁遠かった。

誰にも邪魔されず、時間など気にしないで、制約のない世界でいつまでも遊んでいたい、とそのころの私が強く妄想していたのは、抑圧された日々で自然に生まれる反動だったとみることもできようが、それが叶わない世界線に身を置き続けた結果、その欲求もいつの間にか影をひそめてしまった・・・ように見えた。


時は経ち、大人になり、その環境からも離れて久しいが、ふと見渡すと、

誰にも邪魔されず、時間など気にしないで、制約のない世界でいつまでも遊んでいられる

人間はいない、ということに気がついた。大人のみならず、子どもさえ、である。


なぜ、そうなってしまうのか。

なぜ、遊んでいられないのだろうか。

なにが、われわれを追い立てるのか。

どうすれば、われわれは、遊ぶ自由を手に入れられるのか。

・・・

われわれは、遊びをもとめるべきなのか。


立て続けに問いが生まれるとき

私の頭の中では、すでに遊びが始まっている。


PLAYLOTS と複数形にしてみたり

PLAY LOTS と半角を開けると、遊びまくっている感じが出る


最初のLをRへ変換してみるだけで

PRAY LOTS 

私は何かへ祈りを捧げなくてはいけない気持ちになる。


いくらでも祈ろう。


わたしには、遊び場が必要なのだ。




©関愛子

©SEKI AIKO 2023 のテーマは、 単純さをとりもどす