時間を動かすという行為。
その身ひとつでは自らを守れず、
生き抜く術も持たない個体が種の大多数を占めるにもかかわらず、
人類という生物は、
想像し、創造することで生きながらえてきた。
この世界に、我々を脅かす生物など、いはしない、と、
永く傲り高ぶってきた私たちの遺伝子は、
今更になって
目に見えないほど小さな生命体にその身を脅かされるに至り、
地球上に住う人類の総力を結し、身構えている。
その未知と思われていた生命体は、
肥大しすぎた脳と、張り巡らされた時間および空間的ネットワークのおかげで、
蔓延する事前に、いち早く発見された。
その働きを、分析し予測し把握することができた。
予防法を導き出し、未然に防ぐ方法を、あまねく地球上の同胞たちへ呼びかけるに成功した。
それは、そう、
生物史上、革命的に肥大化した脳と、
革新的に張り巡らされた時間および空間的ネットワークのおかげなのだ。
そして、そう、その革命と革新こそが、
恐るべき未知の生命体を、地球の隅々にまで最短かつ最速で転送したのだ。
文明のなしえた技である。
想像力と創造力で乗り越えた先にあるものを、私たちは予測していたか。
文明の権化。
それをあがめる愚者たちよ。
憎いとは、なんだ。
憎さとは、なぜ生まれるのだ。
その感情は、脳をもつ生物が、あまねく抱きうる自然発生的な共通認識か。
否、しかし、それこそが、革命を進め、革新をもたらした、文明の権化。
自らのため張り巡らせた電波で、自身を傷つけるだろうと言われながら、
有機的肉体の全てを危険に晒していることを耳では聞きながら、
口で、自分ではないものに責任を転嫁することを平気で述べ、
脳で、私のせいではないと思う。
自らの撒いた毒にさらされ、
自分ではない何かのせいにする。
攻撃を最大の防御とする稚拙さで乗り切ってきた私たちは
身を小さく屈めて、嵐が通り過ぎるのを待つことが苦手だ。
待つという行為には、不都合が多すぎる。
人類という暴君が猛威を振るう中、
他の生物は、身を縮め、その嵐の過ぎ去るのを「待っていた」。
「待つ」という行為に苦痛を伴うたび、
「時間」という存在を、味方につけてみたり、無視してみたり、見下してみたり。
都合よく付き合い制御しているかのような気になりながらも
もはやそれ無くしては自らの「尊厳」すら保てない状態であるということに、
翻って、自らがそれに支配されている ということに、
気づかず、また気づいても、肯定的に受容できず、
しかるに許容もされないシステムの中で、泳がされている。
死んだ魚の目をしながら、あるいは同じ眼球を血走らせながら。
いや、感づいているのか。
しかし、この世界から脱け出す方法を知らないだけなのか。
脱け出したとて、生きていける自信がないためか。
「時間」という概念にすら非情さを見出せる想像力と
その仮想敵をコントロールするために発揮したはずの創造力は
ブーメランの如く、その身を切り裂き、
いまや満身創痍になりながら、尚、いきがり続けている。
動かしえない怪物に抗い、歯向かうことしか覚えてこなかった人類の子孫たちは、
偉大なる先人たちの呪いに、いまだ縛られ続けている。
時間、それは、私たちが、動かせるものだったか。
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