一年の厚さ
これが一年なんだと。
ただただ消化してきた日数を思い起こしても、
自分の肉体に月日の感覚は、まだ、染み付いていない。
生きているうちに、これが一年だ、と
自分の体が、頭が、納得するような瞬間は、くるんだろうか。
だけど、これが一年なんだなと。
岐阜善光寺 松枝秀晃氏 一周忌の朝、
彼の生命反応が途切れた「午前10時23分」にスタートする、という
善光寺阿弥陀市「シューコーまるけ」に出かけるつもりで、
この日は暑くて、自転車で行くのを躊躇して、
バスで会場行こうかなとか家出る直前まで考えあぐねてたら、
もはやバスでは間に合わない時間になって、
やっぱり自転車に乗っていくことにする。
◆
ちょっと歪んだリズムで回るペダルを踏んで、
熱い日差しを受けながら、風切って走りはじめたら、
私が彼を「松枝さん」と呼んでいた頃、
いっしょに岐阜町を自転車で回った日がフラッシュバックする。
彼は自転車を「ケッタ」と呼んでいた。
今年はやけに暑かったのもあって、
長良橋を自転車で渡ることも少なかったな。
自転車を飛ばして善光寺通りを入って、
スチールパンが奏でる忌野清志郎が聴こえてきて、
気持ちが一気にあの日に引き戻される。
ここにいたんだ、彼は。
彼を知る人が、ここにいるんだ。
それだけが、
それこそが、という
それこそを、支えにして。
彼と同じ日に亡くなった義父の看取りを終えて、
岐阜に戻ってきて、彼が霊柩車で運ばれていった日の夕方、
厚くて幅のある、長い長い道のようにもみえる夕焼け雲を見つめて、
そろそろ今、あのぞうりを履いて、あの上歩きはじめたのかな
と思ったことを、
いま、あの日と同じ空に浮かぶ、朝焼けの雲を見ながら、思い出す。
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