追憶
生来の転勤族。
といういい方は変ですが、私はそれかもしれない。
生まれて以来、ひとところに10年とどまったことがなく、いまのところ7年が一回きりで最長。
昨日、あるコンサートで、ある曲を聞いた瞬間、ふと、
過去のある1日のことが、蘇りました。
7歳の私が、母と一緒に東京を出て行く日。最初の"転勤"。
あの日、母と二人だけで電車に揺られていて、冊子を広げていた私は、あるページに載っていた歌に目がついて、知らない歌だったから、母に、知ってる?と聞き、歌って、と、せがんだんだと思う。
電車の中で、横並びに座っていた母はしずかに歌いはじめて、やおら大粒の涙を流しはじめた。
それを見て驚いて、ごめん、もういいよ、と幼い私も、さすがにうろたえた。
だけど、母はおそらく歌いきったのだと思う。
なぜなら、私はこの曲をすべて知っているから。
あのときから、ずっとしまいこんでいた記憶が、
この歌を聴いて、
切れて転がり落ちるフィルムテープみたいにつぎつぎと蘇る。
広げた歌集を横から覗き見ながら歌い始めた母、その頬にあたっていた柔らかい光、震えはじめた声、止める私を見やることもなく、手元の歌集にじっと視線をそそぎながら歌い続ける母の口元と、その脇を流れ続け、落ちる涙。
うまれて7年、東京下町育ちの自分には、
目を閉じても、山は見えないし、こぶしの花が何色かも知らない。
ちょっと、大丈夫かな、どうやって母を止めようか、
そのときはそのことばかり考えていたような気がする。
ただ、母には、自分と違う景色が見えている、ということは、幼いながらに理解した。
今年37になる私にフラッシュバックしたのは、
15歳で田舎を飛び出した母がちょうど同じ年月を東京で過ごし、30歳を目前に、私以外のすべてを手放して、一から再出発したその日に起きた、ほんの数分間のできごと。
あんなに気を使った記憶はあるのに、あの電車に乗り合わせていた他人の顔は、少しも覚えていない。
現地に着いてテレビで見ていたNHKニュースで、
帰省ラッシュのVTRに写しだされた新幹線のホームには、大荷物の母と、スキップするように車両に乗り込む自分の姿が写っていた。それは、ほんの一瞬のできごと。
ブラウン管の中に私を見つけた私はあんなに騒いだけど、一瞬で切り替わった画面を、そこにいた大人は誰も気に留めていなかった。
ずっとそこに幸せがあったなら、
ずっとそこから出て行かなくて済んだのかな
とか
もっと違う未来になっていたのかな
と思うことがある。
奇しくも私が配偶者に選んだ人は転勤族で、
たぶんやっぱり "転勤"していくのだと思う。
新天地ではそのたび成長もするし残念なことばかりじゃないことを強く言い切ることはできるけど、やっぱりずっとその土地に居られることを、羨ましく思うときがある。
自分はいまを見ていないと言われることもあるけど、
そんなに先のことも見ていない。
状況は、変わりつづけるものだという確信に近い思いが、たぶん自分の体に染みついている。
でもいまこれをやれば、つづいていく幸せな未来を、もうあと少し先まで
引き延ばすことはできるかもしれないとは考える。
人ひとりの寿命ほど短いスパンで、為せることは限られている。
昨日のコンサートで 岐阜のつたえ話を弾き語りでライブする、歌うたいのズボ こと 長沢由彦 さんが歌ってくれたその歌の、作詞・作曲者は、笠木透さんという方で、岐阜県のひとだそうです。いまここに姿を表した伏流水に気づく。
この日のライブ会場は、歌詞に出てくるような、
山も鳥も、川も魚も、土もひとも、一望できる、すぎ山旅館。
長沢さんのコンサートは2度目ですが、今回も涙腺が決壊しました。
彼のコンサートで私はハンカチ忘れて行ったらダメなんだと思った。
長沢さん、ありがとうございました。
また泣かせてください。
歌:
私の子供達へ
─ 父さんの子守唄 ─
詞・曲 笠木 透
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